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8 学総




 六月にもかかわらず、その日は梅雨の雰囲気ごと払拭されたような青空だった。




 わたしたちは自転車で大きな坂を下ったところにある、黒目第二中学校にやって来ていた。


 全国学校総合体育大会、市予選の二日目である。


 一日目の団体戦は、男子も女子も優勝という結果を残した。南先輩もレギュラーに入っていたが、たまたま試合順が女子とかぶっていたので、男女別に応援をした。よって試合を見ることはできなかったが、今日の個人戦は見られるだろうと思っていた。


 昨日に引き続き、一年生は先輩の防具を出しておいたり、ジャグに中身を入れたり、駐車場の案内をしたり、スコアの準備やら色々で、前回の剣道連盟の以上に忙しく駆り出された。


 ようやくひと段落ついたときには開会式の時刻になっているのも昨日と同じだ。休む間もなく、先輩方の後ろに並ぶ。


 わたしが菫の後に並んで、監督の先生方が何か話しているのを見ていると、


「マナちゃん、いいの?」


 後ろの葵がこそっとわたしの肩をつついた。


「なにが?」 


 わたしは振り向かずに聞き返す。


「南先輩。引退しちゃうかもしれないんだよ」


 葵はそう答えた。わたしはくすりと笑う。


「いいもなにもないよ」


(本気じゃないから)


 本心のつもりだった。そのときは。




***




 女子の先輩の二試合目が終わってすぐ、わたしたちは隣のコートで行われていた男子の試合に駆けつけた。その瞬間、ブザーが鳴った。


 赤い旗が揚がる。南先輩のたすきは、白だ。


 男子の先輩の小さな呻きが、拍手に混じって聞こえた。


「ありがとうございました」


 剣を収めて礼をした南先輩の声が、わずかに滲んでいた。


(南先輩――……)


 わたしは、心の一部が急速に凍りつくような痛みを感じた。






 その少し前、わたしが中庭に面した回廊でたすきの整理をしていると、南先輩と橋場の声が聞こえてきた。


「南先輩、次、シードとじゃないっすか!」


 わたしが二人のほうに目をやると、南先輩は、中庭に向かって開け放たれた大きなドアの近くであぐらをかいていた。


「おうよ。楽勝じゃん?」


 だが、橋場がいなくなると、南先輩は回廊に出てきて柱にもたれかかり、整理を終わらせたわたしがたすき袋を抱えてその後ろを通ったとき、確かにこう呟いていた。


「なんでよりによって……くそっ」


 きっとその言葉を聞いたのはわたしだけだっただろう。






 試合が終わった後、わたしが南先輩を見ると、試合の応援をしている以外はだいたい体育館の隅で吉沢先生に見つからないように横になって寝ていたり、壁に寄りかかってあぐらをかいて寝ていたり、回廊に出て柱にもたれかかって寝ていたりしていた。


「ね、愛海、あのハンカチとってくれない?」


 午前の試合が終了したとき、桜が話しかけてきた。桜のハンカチは、横になって寝ている南先輩の顔の真横にあった。


 わたしが何か言う前に、マイクで黒目二中の顧問が連絡をした。


「では、今から昼食の時間にします」


 すると、南先輩の目がばっちり開いて、がばっと跳ね起きた。


「メシ、メシだ!」


 先輩は、あっけにとられた二人には目もくれず荷物置き場に飛んでいった。


 はぁ、と大げさにため息をつく桜。


「愛海が南先輩を好きな理由が全くわかんないんですけど」
「うん、わたしもそう思う」


 わたしはとぼけてみせた。


 このときわたしは、真後ろに広末先輩の妹・広末真由美先輩がいることになどまったく気づいていなかった。だから、


「えっ……マナちゃん……まさかあぁあ!!」


 と叫びながら真由美先輩が後ろから肩を掴んで揺さぶってきたとき、心臓が止まりそうなほどに驚いた。


「わ、わわわわ、せ、先輩!?」
「マナちゃん……今の言葉をわたしはきいた! きいたよ!」


 その声を聞きつけて、他の女子の先輩も数人集まってきた。


「ひーちゃん、どした〜?」
「ち、違います、違いますよ!」


 わたしが否定する声むなしく、真由美先輩の小声かつ早口の説明は瞬く間にその場にいる全員に伝わった。


「ええぇえ〜!?」
「いや……誤解です……」


 わたしの声はだんだん小さくなっていった。


「……。ねえ、桜?」


 助けを求める気持ちで桜を振り向くと、彼女はにやりと笑った。


「え? この際認めれば?」


 すると、冷やかすような口笛が先輩たちからあがった。


「まあ確かにカッコいいっちゃカッコいいけどねえ」
「バレンタインは協力するよ!」


 先輩方はバシバシわたしの背中を叩きながら、お弁当を取りに荷物置き場へ向かった。昼食の頃には、二年女子の先輩全員に話が伝わっていたようであった。


(まあ、……誰も本気だって気づいてないみたいだから)


 南先輩は今、弁当が足りないと騒いで一年男子からそんなに食べられるのかと思うほどのおかずやおにぎりを分けてもらっていた。思えば昨日もこんな光景があった。増やしてもらえばいいのに。


 わたしはまだ手をつけていない自分のおにぎりの位置をさりげなくずらしたが、南先輩は女子には声をかけなかった。


(そりゃそうか)


 川畑先輩に言った女に興味がないというのは本当なのか――男に興味があるのかは別問題として――南先輩は自ら女子に話しかける性格ではなかった。


 それからしばらくして、わたしは食べ終えたお弁当を包んだ。手をつけなかったおにぎりも一緒に。


 南先輩は、橋場からもらったからあげを幸せそうに食べていた。それから荻野とジャグの中身を取り合いして、「先輩命令だ、譲れ! 先輩のほうが疲れてんだからなっ」と言って笑った。




***




 救急箱を菅原先生の車に積み、体育館に戻ると、まだ南先輩は竹刀を持っていた。なにか、橋場とさかんにしゃべっている。


 選手の竹刀は菅原先生が学校まで運んでくれることになっていた。それを車に積むのは一年生の仕事だ。


(声、かけよう)


 わたしは何度か呼吸を置いて、南先輩に近づいた。口の中で、何度も、『竹刀持って行きます』と繰り返す。声が震えないように、裏返らないようにと念じることも忘れない。


 神経の一本一本から勇気をかき集め、いざ。


「あの、」
「あっ先輩! 俺、竹刀持って行きます」


 わたしの小さな、だがありったけの勇気を振り絞って出した声は、橋場の、悪気なんてこれっぽっちもなさそうな声に遮られた。皮肉なことに、わたしが何十回も口の中で練習した台詞だった。


「おう」


 そしてわたしの目の前で先輩は橋場に竹刀袋を渡し、防具袋を引きずって体育館から出て行った。


「あ、都築。これ持って行って」


 ぽつんと残されたわたしは、竹刀を持った高塚先輩に声をかけられるまで、そこに突っ立っていた。




 それから約五日間、一年生は部活が休みになった。吉沢先生が地区大会に出る先輩の面倒を見ることに集中したいから、ということらしい。


 本当に自分はタイミングが悪い、とわたしは思った。


 これが叶わない恋だなんてことはとっくに気づいていたが、それならせめて、残された時間を――たとえそれが一週間だとしても、大切にしたかったのに。


 本気になるのが遅すぎた自分のせいなのだから、せめてと、わたしは毎日二階の窓から武道場の中を見てから下校した。二階から見るとパイプ椅子は死角になっていて、南先輩の姿を見ることは一度もなかったが。




 地区大会の前日にようやく部活に行くことができたが、やはりというべきか一年生は部室に押し込まれ、大会の準備に手を動かした。


「いやぁ、人口密度高いね」


 座って女子の救急箱の中身を整理しながら茜が言う。部室自体は狭いわけではないが、置かれた荷物が多いので、十二人もいると、足の踏み場がほとんどなかった。


 葵はスコアを書くための大学ノートに線を引き、桜は男子で剣道経験者の比佐と一緒に先輩の竹刀を点検していた。二人は同じ剣道連盟の出身らしい。比佐は男子で唯一同じ小学校ではなかったので、なかなか喋ることもないのだが、最近なんとなく性格がわかってきた。一言でまとめればガリ勉系いじられキャラだ。


「人口密度か。だいたい四畳くらいだから、三人毎畳ってことだね」
「いや、別にそこまで正確な人口密度は求めていませんけど」


 桜の言葉に比佐は、はいはい、と返した。


 なかなかしゃべることがない、といえば、皐ともう一人小学校が別だった女子の碧という子ともあまり話したことがない。ショートボブカットが似合う彼女は人見知りなのか無口なのか、いつか仲良くなれればいいなと思うのだが。


 彼女は今皐と一緒に防具袋をたたんだり仕分けたりしている。


「うち的に、そこの男子が出て行けばだいぶすくと思うんですけど」


 菫が、隅っこでさかんにゲームの話をしている三人をあごでさした。菫はたすきを一枚一枚折りたたんでいた。


「だよねー! お前等もなんかやれよ〜」


 谷内という男子が菫に同調した。彼は男子の救急箱を整理していた。


 その男子たち三人――橋場、荻野、末岡は、唐突に話題にされてこちらを向いた。


「いやいや、やることないしー」


 一番声を張って喋っていた荻野という男子が肩をすくめた。


「スコアに線引くとかあるでしょ!」


 と葵。


「いや〜だって、男子のスコアブックないんだもん……」
「あるよ。ここに」


 荻野の反論に覆いかぶせるように、本棚の近くで竹刀のささくれを削っていたわたしが大学ノートを放ってよこした。


「あーなんてことをするんだ愛海さん……見つけなくてよかったのに」


 橋場がそれを受け取って顔をしかめた。わたしはとりあえずピースしておく。


「愛海さん、だって?」


 こちらに背を向けていた皐が聞きとがめて振り向いた。


「橋場って女子を下の名前で呼ぶ性格だったんだ……」
「違ぇよ! だって都築ってしっくりこねーもん」
「とかいって本当は」皐も諦めない。
「まあアレだしね。わたしはずっと橋場って呼んでるけど」


 幼馴染では言いすぎな気がしたので、適当に濁すと、それもまた皐のイジりネタになった。


「アレって何? カレカノ?」
「だーかーらー違ぇって」


 橋場がここまで否定するのは、こんな奴でも彼女がいるからなのだが、一応隠しているらしい。それを言えばあっさり説得できただろうに、皐の中では橋場はわたしが好きだということで完結されたようだ。


「あーあー残念だねえ。愛海は南先輩が好きで」


 皐が目を細めた。


 またささくれ直しに集中しかけていたわたしは、危うくそれをさらっと受け流すところだった。


「え、マジで?」


 男子五人が綺麗にハモッたことでわたしはハッと顔をあげた。


「ちょっと、皐ちゃん!」
「そうなの? 愛海さん」


 何故か荻野まで橋場の真似をしてわたしのことを愛海さんと呼び始めた。


「いや、誤解ですから」
(本当は違わないけど)


 とりあえず橋場にだけは知られたくない。


 皐の前で必死に否定しても伝わらないということは橋場が証明してくれたので、わたしは努めて冷静にそう言った。そのおかげか、皐はふふんと笑っただけでなにも言わなかった。


 そういえば、今日も南先輩を見ていない。早い段階で部室に押し込まれたので、遅れて来たのだとしたらそれも仕方ないが。


(元気で……部活に来てるといいな)


 あの力なく柱にもたれかかっていた背中がちらついて、またわたしは胸がきゅっと締め付けられるような気持ちになった。




 だが、わたしの小さな願いは叶わず、その日わたしが南先輩の姿を見ることはなかった。


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