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5 はじまり




 大会の後は女子のみんなで感想を書いたノートを見せっこ、というのは当然の流れであって、一応否定しようがしまいが、わたしが南先輩のことを意識してしまったことが知られるのもまた当然であった。


「愛海、南先輩のこと好きなんだよね?」
「そんなことないよ」
「愛海の好きな南先輩♪」
「違うって! 好きとカッコいいは違うでしょ」


 気がつけば、茜をはじめとするみんな、南先輩のことをいちいち「愛海の好きな南先輩」と呼ぶようになっていた。


 困ったのは、本人が近くにいてもそれをこそっと言われたりしたことだ。下手に否定もできない。


 幸い、本人からなにか言われたりすることはなかった――そもそも、南先輩は、自ら女子の後輩に話しかけたりする人ではなかった。


 モップの件を問われて以来、わたしが南先輩と話すことはなかった。


 校舎内で見かけて挨拶をしても、これは男子のほとんどがそうだったのだが、返事さえしてくれなかった。男子の先輩特有の威圧感の方に負けて、わざと目を合わせずに挨拶をしなかったこともあった。




 話してみたい、と思わないわけではなかった。


 一年男子、その中でも特に気に入られている例の橋場が親しげに南先輩と話しているのを見ると、輪に加わってみたい、と思うことがあった。南先輩と彼の会話を聞いていると、わたしでもわかる話題がいくつもあった。


(別に、好きなわけじゃない)


 憧れているだけ、一度しゃべってみたいだけだと、わたしは自分に言い聞かせた。


 わたしにはない自信に満ち溢れた南先輩に憧れている。恋愛感情でいえば、小学生のときから好きだった人のほうがまだ好きな……はずだ。




 だが、先輩が部活に参加しないとやっぱり心配してしまう感情のほうにも、気づかないわけにはいかなかった。


 六月に入ったある日の武道場の片隅では、ジャージ姿の南先輩が、男子の素振りの足捌きをじっと見つめていた。


(今日に限って、男女別で練習か……)


 その日、部活を見学していた南先輩は、男子の練習を監督していた。


 どうして見学なんだろう、と、それとなく桜に聞いてみると、寝違えたかららしいよという返事が返って来た。真偽のほどはわからないが、南先輩ならそれくらいで休みそうな気はする。


 例の橋場が、時々調子よく南先輩に話しかけながら練習をしていて、わたしはため息をつきたい気分でそれを見ていた。


 ここ最近武道場に入ると、隅っこでパイプ椅子に腰掛けた南先輩と床に胡坐をかいている橋場のコンビが盛り上がっているのが当然の風景であった。そのたびに焼け付くような胸苦しさに襲われる。


 橋場とは、家が近かったこともあり、小さい頃はよく遊んでいた。家が近いとか、親同士の仲がいいとかいう理由で関わらざるを得なかった男子は他にも数人いる。橋場はその中ではまあ気が合ったほうで、根っから嫌な奴というわけではなかったが、南先輩と話している橋場は嫌な人間にしか見えなかった。


 もちろん、南先輩と橋場の仲がいいことは、橋場にとってもわたしにとってもどうにもならない問題であり、そんなことはよくわかっているし、だからって橋場に相談するなんていうのは死んでも嫌だ。要するに、嫉妬だ。橋場のことが嫌いなわけではなく、橋場は南先輩と話せるのにわたしは話せないという自分のふがいなさに腹が立つのである。


(わたしも男だったらなあ)


 そんなことを思ってから、それだったら南先輩を好きになるわけないだろ、と気づいた。




 部活が終わった後、モップが足りなくてわたしは手が余ったので、何をするでもなくたっていると、南先輩が部室に入っていくのが見えた。


 わたしは思わず後を追って部室に入った。入ってから、


(なんとなく入っちゃったけど、どうしよう?)


 と、勝手に一人で困った。


 幸い、南先輩は救急箱をいじっていてこちらに背を向けていたので、何をしているのかと訊ねられることもなく、わたしは先輩の背中の広さに見とれながら、竹刀をいじるふりだけ続けていればよかった。


 今までにないほど南先輩の近くにいながら、わたしは声をかけようかかけまいか悩んでやっと、気の利いた話題がないということに気づいた。


 橋場はいつもなんて言って話しかけているんだろう――。


 南先輩が立ち去るまで、わたしは竹刀をいじるふりを続けるしかなかった。




 次の日、いつものように部活が始まろうとしていると、一年生に竹刀を届けてくれた人と同じ武道具屋さんが、たくさんの黒い大きなカバン――というより、袋に近い――を抱えて武道場にやってきた。


(一年生の防具か)


 わたしは、いつも部室の片隅に積まれている袋と、その袋を重ねて、ひとり納得した。


 一年生はほとんど追いやられるようにその袋たちと一緒に多目的ホールへ出た。それから、おのおの袋の山(初心者の一年生は十人いたので、人数分の防具袋が積まれているとこの表現は決して誇張ではなかった)の中から自分の名前が縫いこまれた袋を探して引っ張り出し、中身を確認した。防具袋には胴着や袴も入っていて、それらにも自分の名前が縫い付けられていた。


 そのうち竹刀袋もやってきて、わたしは南先輩の迷言を思い出さずにはいられなかった。結局あの時南先輩の竹刀袋を借りたのは橋場だった、なんてことも。



 真新しい防具を眺めていると、南先輩を見つめることで少しはなくなりかけていた、辞めることへの執念が、少しだけ疼いたようだった。


(先輩と同い年になるまであと二年……。わたしでも、やっていけるかな)


 わたしはその感情を無視した。ここまできたからには、吉沢先生たちを信じて、やれることをやるしかない。




 そのうち二年生の先輩がわらわらとホールにやってきて、男女それぞれ先輩について更衣室へ向かった。更衣室は武道場の目の前にある。


 一年生はぎこちない手つきで先輩に言われるがままに胴着や袴を着た。初めて着た胴着は冷たさが肌に心地よかったが、硬くて重い。だが、トイレの鏡で見てみると、そこにはどこからどう見ても剣士がいて、それは感動だった。


 着付けが終わるとまた先輩と別れて多目的ホールに戻り、武道具屋の人に教わりながら防具を面までつけた。


 それからは、硬い防具を身につけてはしゃぎまわり、先輩の見よう見まねで面を打ったり、ホールの隅に設置されているエレベーターの扉に写る姿を見ていたり。わたしは、茜と菫のぐちゃぐちゃな剣道形を見て笑っていた。ふつう、面をつけて行うものではないと思う。


 遊びがだんだん面の叩きあいになってくる頃、再び二年生の先輩方が現れた。


 防具をつけて落ち着かない一年生を見て、にっこりする。




「よし。試合、しよっか?」






 一年生の初試合は秋の新人戦よ、と吉沢先生によく言われていたが、それは大会デビューという話で、本当のわたしの初試合は、防具が届いたその日に行った試合だ。これから何十年剣道を続けていくことになっても、それはずっと変わらない。


 防具が届いた日に試合をするのは毎年恒例らしい。二年生の先輩も、三年生の先輩も経験したそうだ。


 先輩対初心者なのだから、もちろん普通に試合をするわけはない。一年生に有利な特別ルールが設けられている。


 一年生に限り、打突の強さ、踏み込み、そして多少の形の変化は問わないというものだ。通常、剣道の試合では、それらが正しく、また声があればだいたい有効になる(これを気剣体の一致という)から、このルールでは一年生は声さえ出していれば竹刀を振り回して当たっただけでも勝つことができるということだ。だから、初試合に臨むわたしは特に心配もしていなかった。


 主審が南先輩だと知るまでは。




 南先輩の声で試合が開始して、南先輩は一番試合がよく見える位置にいて、ずっとこちらを見つめているわけだ。


 それに、

(南先輩、胸元がはだけてるんですけど……っ! 胴つけてないし……)


 おかげさまなのか、試合場に足を踏み入れた瞬間から頭が真っ白になって、試合は全くといっていいほど記憶にない。聞いた話、ほとんど突っ立ったまま見事に惨敗したようだ。ここまで見事に負けたのはわたしだけだったそうな。




 ところで、先述したように武道場のすぐそばには男女の更衣室があり、ありがたいことに剣道部はそこをほぼ独占状態で使用させてもらっているのだが、何故か三年男子の先輩には更衣室で着替えるという習慣がないらしく、恥ずかしげもなく武道場で堂々と着替えていた。


 右奥の、モップが収納されている倉庫の扉の目の前をほぼ封鎖する状態でなければ困らないのだが、時には声をかけないと倉庫に入れないこともあるので、見る気がなくても上半身裸なんかは普通に目に入ってしまう。たまに二年女子の先輩方が「わたし○○先輩のパンツX回みたことある、嫌だわー」という会話を繰り広げていることもある。


 そんな環境で過ごすようになってもう二ヵ月ほど経っているが、どうしても、南先輩のそんな姿だけは、目を背けたくなるような、でもちょっと興味あるような、なんとも言えない葛藤があったのだった。


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