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4 気になる声




 その次の日、吉沢先生から電話が来て、何がなんだかわたしにはまったくわからないまま、両親にも話はついて、わたしは正式に部活を続けることになった。


 とはいえ運動できないという事実は変わらず、体力なら入部する前に比べればついてきたのかもしれないが、やはり同級生よりは劣っていて、自信のなさや迷惑をかけているという心配は拭えなかった。




 先生と話した日から一週間もしないうちに、初めて一年生も竹刀を使った練習をした。二年生の先輩の竹刀を借りて、握り方や、構えの足などを教わった。


「マナ、上手いじゃん」


 先輩に感心されたのは、たぶん一度菅原先生に指導されたからだろう。






 土曜の部活は午前九時から始まる。経験者以外の一年生が、多目的ホールにて "競争抜きで" 筋トレをしていた十時ごろ、見慣れない大人が武道場を訪れた。


 武道具屋の人らしい。細長いビニールにつつまれた竹刀を何十本も担いでいた。


 吉沢先生の指示により、一年生は筋トレを取りやめ、竹刀選びをすることになった。


 覚えたばかりの素振りで竹刀をあれこれ振ってみて、わたしが選んだのは、先端のほうが重くて持ち手(柄というらしい)が細い竹刀だった。ほかの一年生も思い思いに竹刀を選んだ。


「その竹刀は、今日は持って帰りましょう」


 と吉沢先生。


「ただ、竹刀袋がいるわね。部室にあるから、適当に借りなさい」




 そのときだった。丁度休憩をしていたその人は、部室にぞろぞろと入っていく一年生の列に、こう呼びかけた。


「俺のを使えば強くなるよー!」


 え、と暗い目配せを交わす一年女子。


「どんだけ自信満々だよ……」


 その中の誰かが言って、わたしも同調した。


 結局その人――言うまでもなく南先輩――の竹刀袋は、橋場という、わたしたちと同じ小学校で何故か南先輩に可愛がられている男子が借りた。わたしは名前の入っていない竹刀袋を使った。




 入部してから一ヶ月の間、南先輩の独特でハスキーがかった声はなんとなく聞こえていた。ただ、響き始めたのはこの頃からだったと思う。


「俺、カッコいいわ〜!」


 そういう発言があるたびに絶句するのは一年女子だった。


 男子は聞いちゃいないし、先輩方はというと、その類の発言がされた瞬間だけ時間が切り取られたかのように、何事もなく振舞っていた。ツッコミすらない。どうやら普段からこんな調子らしい。


「ねえ……あの人ナニモノ?」
「酔っているー。あの人自分に酔っているー」
「自分で言うほどのカッコよさじゃないよね……」


 みんながそう囁く横で言えるはずもないが、わたしはひっそりと、南先輩に大して尊敬のような感情を持ち始めていた。


(あんなに自信を持てるようになれるかな……)


 この憧れはいつしか、いつぞやのミーティングで話したような目標より、わたしにとって大きなものになっていた。部活が始まる前など、武道場の片隅で目立たぬように素振りをしていると、パイプ椅子の方からの視線を感じることがあって、あと少し頑張ろうという気持ちになれた。




 五月も下旬のある日、武道場に入ると、いつもはパイプ椅子に座って雑談している南先輩の姿がなかった。


 南先輩はどちらかといえば部活をよく休むほうなので、二週間に一度くらいの割合でこういう日がある。だからわたしは、いないとちょっと静かだなと思った以外特に南先輩について思案することもなく、その日を終えようとしていた。


 部活終了の挨拶の後、竹刀を片付けるため部室に入ったとき、傍らの大きなホワイトボードが目に入った。いつだったか、南先輩がこれに「ムスカ大在の本名 ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ」と落書きをしていたことがある。その後間違いに気づき、「たいざい」と読み仮名をふっていた。


 ひとり思い出し笑いをかみ殺していると、しゃべりながら吉沢先生と菅原先生が入ってきた。


「――そういえば、南はどうしたんです?」


 丁度南先輩のことを考えていたわたしは、びくりとして部室から出ようとした。だが、菅原先生の言葉に、思わず足を止めた。


「南は病院だそうです」


(病院……?)


 そのとき、菅原先生が声をかけてきた。


「おお、都築。部活どうだ?」
「あっ……はい。大丈夫です。ありがとうございます」


 わたしが笑顔を作って言うと、先生はそうか、とだけ言って、吉沢先生と別な話題を話し始めた。


(どっか悪いのかな。どこが?)


 わたしは部室から出て、荷物をまとめながら、そんなことばかり考えていた。でも、すぐにハッとした。


(なんでわたしが心配しているんだ……!)


 わたしは慌てて内心で首を横に振った。




 お笑いのイメージが強かった南先輩だが、同じくらい真面目な人でもあった。よくバランスをとれるものだと感心したこともあるくらいだ。


 あるとき、一年生の女子が雑誌を片手に騒いでいて、わたしは楽しそうだなあと思いながらもそれには加わらず部室に入ろうとしていた。


 だが、南先輩が見るからに不機嫌な顔をして部室の前に立っている。首の後ろに竹刀をかけて一年女子を睨む表情は威圧感抜群だった。


 これは、みんなに注意しなければ――実行する前に、南先輩の声が飛んだ。


「静かにしろ! 仮にも部活中だぞ!」


 しかし、女子は気づかなかった。南先輩は軽く舌打ちをした。


 足をすくませたわたしを、南先輩が振り返った。


「一年。モップかけた?」
「あっ……はい。かけたと思います……」
「そう」


 そのときわたしは気づかなかったが、南先輩のすぐ足元に埃が落ちていたのだ。皐という同級生が拾って捨ててくれた。




 ところで、剣道部には男子と女子にそれぞれ部長と副部長がいて、基本的に号令は男子の部長がかけている。時々女子がかけることもあったので、教えてもらわなくとも誰が部長だかはわかっていた。


 しかし、副部長が誰なのかはわからなかった。男子の副部長は高塚先輩という人――聡明、真面目、誠実、剣道も強く、当時の男子の中では一年生女子の挨拶を唯一欠かさずに返してくれる人だった。ただ、身長が百五十センチもなかったのが非常に悔やまれる――だと聞いていたが、男子部長がいないときは、高塚先輩ではなく南先輩が号令をかけていた。さて、南先輩はどういう立ち位置にいるのだろう。


「号令係、じゃないの?」


 部活が終わった後、モップをかけながらそんな疑問をなんとなく口にしてみると、小学生のときからの付き合いである菫がそう答えた。菫は色白で、ポニーテールが特徴の女子だった。


「この間、吉沢先生が南先輩に『号令係?』って言ってたもん」
「え? 副部長だと思ったけど」


 そう言ったのは、同じく小学生からの付き合いで、菫の幼馴染でもある茜だった。わたしたちの中では一番身長が低い。
 わたしたちは三人で横に並んでモップをかけていた。


「オリエンテーションの冊子の巻末に、書いてあったと思うよ?」
「副部長は高塚先輩じゃん」
「あ、そっかぁ……。二人いるのかな」


 オリエンテーション、というのは、毎年仮入部初日に授業時間を使って行われる、部活動紹介のことだ。実際に部活でやっていることを見せたり、笑いをとってみたり、文化部は説明だけして終わりなんていうところも多い。ちなみに、わたしはその時剣道部に入る気が全くなかったので、剣道部の発表の印象は全くなかった。


 茜は、でもさぁ、と冗談を言うような口調で続けた。


「そうだとしても、高塚先輩と南先輩って、同じ立場には見えないな」


 確かに。そう思いながらも、わたしは肩をすくめるだけにとどめた。南先輩への憧れあれこれは、まだ誰にも言っていなかった。


「高塚先輩って、すごい人だよ。めちゃくちゃ優しい。身長、あれ、きっと仮の姿なんだよ」
「はぁ?」


 茜がいきなりおかしなことを言い出したので、菫がとげとげしく聞き返した。


 茜の主張はこうだ。


「あんなに身長小さかったら、普通グレるじゃん。でも高塚先輩がそうじゃないのは、自らを戒めるために身長を小さくしてるからなわけ。自分で選んだ道なんだよ」
「普通グレるって思考がわからねーよまず」


 高塚先輩がすごい人なのはわかるけどね、と菫。


 茜は彼女の厳しいツッコミも気にせず、こう話を締めくくった。


「そんな人と同じくらいの立ち位置の南先輩も、内なる力を秘めているんじゃないのかな」
「"そんな" って、お前の妄想じゃんすべて」


 かかさず菫がツッコみ、わたしは笑った。




 掃除を終え、モップを片付けようとしたとき、一年生が数人吉沢先生に呼ばれた。明日、大会があるらしい。


「大会って、学総? こんなに早く?」


 何人かが部室で先生に説明を受けているのを見ながら、桜が首をかしげた。


「学総って何?」とわたし。


 桜は少し驚いたような顔でわたしを見たが、教えてくれた。


「学校総合体育大会。市大会から全国大会まであって、負けた時点で三年生は引退」
「へえ〜……」


 わたしはいまいち引退というのもどういうことなのかわからなかったが、それはそのうちわかるだろうと訊かなかった。




 どうやらその "学総" とやらではないらしく、学校の近くの黒目市立武道館でその大会は行われた。第五十何回、春季青少年剣道大会。一年に一度の開催ということは、もう五十年以上続いている大会だということになる。第二次世界大戦以降しばらく武道は禁止されていたと聞いたことがあったので、これが相当古い大会だということはわたしにも想像がついた。


 しかし、実際は、地域の剣道連盟の子供のために開かれているようなもので、小学生の部と中学生の部があるものの、中学校は黒目一中しか参加していなかった。つまり、中学生の部はすべて部内戦であった。


 当然一年生は出場しなかったが、雑用の仕事が待っていた。わたしは吉沢先生にスコアのつけかたを習い、それを他の一年生に教えながらスコアをつけた。暇な一年生は、吉沢先生の命で、先輩の試合を見て思ったことなどをノートに書き留めた。


(南先輩、すごいな)


 わたしが見ている間に、南先輩はどんどん勝ち進んでいった。


(声なんて特徴的だしな。かっこいい!)


 スコア係を他の一年生に代わってもらった後は、わたしもノートに一行づつ感想を書いていった。後で見直してみると、南先輩の何がかっこよかった、ばかり書いていることに気がつかずにはいられなかった。わたしはなんとなく気恥ずかしくなって、慌てて他の感想を書き足した。それでも南先輩の内容が多いのはどうしようもなかったが。


 結果、南先輩はその大会で三位になり、


「まあ、流石俺ってとこ?」


 となんでもなさそうに肩をすくめていた。




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