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2 挫折




 武道場は入り口から見て左右に長い長方形で、正規サイズのコートがふたつ並び、棚が四隅に置かれている。入り口から向かって右奥が男子三年、右手前が男子一、二年の棚。左奥は女子三年、左手前は女子一、二年となる。


 武道場には倉庫が三つある。入り口から見て正面にあるドアは部室兼倉庫その一。中には竹刀と、救急箱、防具袋、ホワイトボード、男子の胴着などが所狭しと置いてある。倉庫その二はその隣で、三年男子の棚の近く。モップが入っているだけにしては広く、かなりのスペースが余っている。その三は女子一、二年の棚のそばで、こちらは一番狭く、女子の胴着が入っているのみ。


 顧問は男性理科教諭、菅原先生。主に三年男子から慕われているのが、わたしの目から見てもわかる。三年三組の担任でもある。父親のような態度で生徒に接する人だ。


 男子三年の棚のそばには、何故かパイプ椅子が一脚だけ置かれていた。ここは南先輩の特等席のようで、わたしが武道場にやってくると、南先輩がこれに腰掛けて誰かとしゃべっているのが、この一ヶ月弱で既に定着した、部活が始まる前に決まって見られる風景だった。




 実は、南先輩のことは入学する前から存在だけなら知っていた。桜が昔に剣道の大会で見かけたらしく、「南先輩って人がカッコいいんだよ」と教えてくれていたからだ。


 わたしたちが住んでいる黒目市では、小学生を対象に、毎週土曜日になると中学校の空き教室を使って英会話教室が開かれていた。わたしたちはそれに行く途中いつも武道場のそばを通りかかっていたので、授業があるたびに武道場の中をのぞいていた。


 カッコいいという南先輩に興味はあったものの、わたしが見ていたのは別の人だった。いや、実際には、別の人を南先輩だと勘違いしていた。そして適当に相槌を打ちながら、そんなにカッコいいか? と思っていた。入部したとき、その人はもういなくなっていた。




 わたしが初めてちゃんと南先輩を見たのは、仮入部の時だ。


 桜が、


「改めてみるとそんなにカッコよくなかったわ」


 と苦笑いした。わたしも全くだと思ったが、それは「想像よりカッコよくなかった」という話。


 南先輩は身長が高かったが、他の先輩もかなり長身だったので、それに比べるとがっちりした方だった。肌は黒めで、髪は茶色っぽく短かった。後姿だけでもすぐにわかるくらいの絶壁頭で、そのせいか首から顎にかけてのラインが独特だった。




* * *




 入部して早一ヶ月。


 一年生はまだ体力づくりの段階だったが、剣道経験者の桜だけはときどき先輩と一緒に稽古をしていた。


「え、南先輩?」


 どんな人なのか尋ねてみると、桜は少し悩むような顔をした。一緒に稽古するといっても、言葉を交わす機会はあまりないらしい。


 最終的に桜は一言でまとめた。


「そうだな……ナルシストだな」
「はい?」
「この間同級生に、俺の技に酔え! って言ってるの聞いた」


 わたしは思わず笑った。


「相当自信あるねぇ……」




 さて、わたしのほうも自信がつけばいいのだけれど。


 自分で選んだのだから頑張らなくてはとは思う。でも、頑張っていても筋トレやらランニングやらを終えるのはやっぱりわたしが最後だった。


 多少は覚悟していたから、そういったトレーニングならまだいいのだが、時々、階段をリレーで走ることがあった。ビリだったほうが追加でスクワットをしたりする。わたしがいるチームはいつも終えるのが最後になってしまうので、わたしはみんなに嫌われてしまうのではないかとそれが怖かった。


 体力がついている実感もあまりないまま一ヶ月が過ぎたが、この一ヶ月はなんだかたいへん長く感じた。出だしからこんな調子で本当に三年間続くのだろうか。




 そんな疑問を抱いたまま迎えた五月のある水曜日、わたしたちが先輩の試合を見学していると、放送で顧問の菅原先生が呼び出されてしばらくその場を離れた。その日、吉沢コーチは来ていなかった。


 いくらもしないうちに先生は戻ってきて、わたしを呼んだ。なんだろうと思いながら、上履きも履かずについて行くと、階段を上って二階の隅にある職員室へ向かった。その一角にあるスペースのソファに座らされる。そこで怒られている人を見たことがあったので、わたしは少し緊張した。


 菅原先生は、すぐには話し出さなかった。勉強はどう? 中学には慣れた? など、あたりさわりのない話をされて、それが本題でないことはわかるので、わたしは適当に受け流した。


 少しの沈黙。それから先生は話し始めた。


「部活辞めたいってのは、本当か?」


 わたしは目を見開いた。先生にそういった話はしていないし、それどころか友達にもしていない。


「誰が――?」
「お前の母さんから、電話があったんだ」
「母が……」


 わたしはうつむいた。


 そういえば、母にだけは数日前部活について話していた。わたしには三つ年上の兄がいて、その兄も中学生のとき陸上部を辞めた過去があったので、母は、わたしに無理に部活を続けろとは言えないと言って、その話は終わった。


 ただ、それを顧問の先生にも相談するどうかは自分で決めると一緒に告げたはずだ。


「それで、どうなんだ?」


 自分の意見を自分で言えない人にはできればなりたくないのに、母のおせっかいのおかげで、先生からすればきっとそう見えているだろう。わたしは唇を噛んだ。 


「本当です」
「目を見て話せ、都築」


 言われて、わたしは顔をあげた。菅原先生はこわい顔はしていなかった。ただ心配そうな顔をしていた。


「理由を聞かせてもらえるか?」


 わたしは答えなかった。内心あまり乗り気ではなかった。


 今のところ、まだ部活を辞める決心というものはついていなかった。部活動は参加必須だが、どの部へいくのかといったところなど具体的に決めていないし、優しくしてくれる先輩や親友と同じ部活といったところに未練もある。


「都築?」


 仕方ない。話すしか選択肢は残されていないようだ。上のような心境を明らかにしたとしても、今問われているのはそちらではない。


「一番大きな理由は――」


 わたしはため息と共に話し始めた。


「わたし、やっぱり運動部向いてないんじゃないかと思って」
「どうして?」
「スポーツのセンスみたいなのが……ないんです」


 わたしは肩をすくめて、自分の運動神経にまつわるいろいろを話して聞かせた。この大して長くもない時間、菅原先生はずっと黙って聞いていた。


「――だから、み……みんなにも迷惑をかけていると思って。きっと、剣道も上手くなれないような気がして、それなら防具が来る前にやめようかな、って、思うんです」


 わたしが話を締めくくると、まず先生はティッシュを差し出した。


「怒っているわけじゃないんだから……そう泣くな」


 そうじゃありません、と言おうとしたが、声にならなかった。


 わたしは、人並みに運動ができる人には、できない人の気持ちなんてわからないと思っている。同時に、仕方のないことだとも思う。誰かしらに言わなければ気持ちは伝わらない。ごくたまに例外もあるけど、これは含まれない。


 鬼ごっこで最後まで鬼をやらされたり、体育のチーム決めで取り残されたりした時って、思い出すだけでも涙が出てくるくらい悔しい。何が一番悔しいかっていえば、文句を言う場所が自分にしかないところだ。自分が悪いなんて事はよくわかっているんだ。だから泣くことだってできないし、よく布団の中でひとりで泣いた。


 話しているうちにそんなことまで思い出して泣いてしまったのだが、先生はなにか勘違いしたようだった。とりあえずティッシュは受け取った。


「そう自信をなくす気持ちもわからないではないが……」


 わたしが目を拭き終えるのを待って、先生は口を開いた。


「なあ、それじゃあ、都築。剣道については、どう思う?」
「はい?」
「剣道についてだ。剣道をしている先輩についてでもいい。どう思う?」


 そういわれて正直にまずひらめいたのは、あんまり走らなくていいなあということだった。でも、ちょっと考えればもう少しなにか出そうな気がした。そのとき思い浮かべていたのは、奇しくも南先輩であった。


("俺の技に酔え!" か)


 わずかだがにわかに元気が出て、わたしはこう答えた。


「やるからには強くなりたい……です。先輩みたいに」




 今になって思えば、こう答えたのがすべてのきっかけであり、始まりであり、このときわたしの目の前にあった大きな二つの道を、ひとつに絞った瞬間であったと思う。


 それが正解であったのかは未だに、もしかしたら一生、わからないけれど。




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