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10 笑顔 *** 決勝戦から一時間ほど後、黒目一中への帰路につこうという頃に、黒目二中の主将らしい人が体育館から出てきた。手にシンプルな銀の水筒を持っている。 「この水筒、一中の人のじゃありませんか?」 わたしたち一年生は首を傾げたが、川畑先輩が「それ南のだよ」と声をあげた。しかし、南先輩は高塚先輩と一緒に一足早く駐輪場へ向かっている途中で、その背中に川畑先輩が呼びかけても聞こえていないのか振り返らなかった。 「あいつ、張り切ってたからな〜」 その水筒を受け取った小日向部長がぼやく。そして川畑先輩と一緒に南先輩を呼んだ。 「南ー! オイ南! ――下の名前で呼べばくるかな? よしあーき!!」 そのとき、わたしはあることを思い立って小日向部長に振り返った。 「あの、えっと! 先輩、それ、わたしが届けます」 そう言うのは、南先輩に言うよりも簡単だった。だが、小日向先輩は首を横に振った。 「いいよ、もう気づいたし。下の名前で呼んだからかな」 その言葉に南先輩のほうをもう一度見てみると、確かに、先輩が走って戻ってくるところだった(下の名前で呼んだ効果だとは思えなかったが)。 「おうー悪ィ悪ィ!」 南先輩は陽気に言って、小日向先輩から水筒を受け取った。なんだか機嫌が良いように見えた。 小日向部長が言ってた「張り切ってた」というのは、菅原先生に一中生を率いるよう頼まれたかららしい。 「先頭、小日向先輩とか青木部長かと思ってた」 自転車に跨ってわたしがつぶやくと、近くにいた菫が笑った。 「来るときとか、昨日もそうだったじゃん」 「そうだっけ?」 菫がいうには、今日の選手は全員菅原先生や吉沢先生の車に乗せてもらっていたそうだ。一番後ろを走っていたわたしはちっとも気づかなかったのだ。わたしは少し残念な気分になった。 行きは下り坂だったが、帰りはきつい上りだ。みんなが自転車を降りないで上りきる様には感動すら覚える。もちろん、というのもなんだが、わたしには無理だ。 というわけで、今日もわたしは一人せっせと自転車を押したが、上りきったときあることに気づいた。 (うそ、みんないないじゃん……) 道に自信があるないではなく、一人学校への到着が遅れてしまうともう自転車で会場へいけなくなるくらい面倒なことになるらしいのだ。わたしは慌てて立ちこぎをした。だが、一向に部員の姿は見えない。 あれおかしいなー、と思いながら大通りに出て百メートルほど進んだときだった。 「おーい、マナー、こっち、こーっち!」 吉沢ハルカ先輩の声がして振り返ると、反対車線の信号に南先輩を初めとする一中剣道部一同がいた。慌てて戻ろうとすると、またハルカ先輩が何か言った。 「いいから――て!」 「はーい!?」 聞き返したが、そこであちらの信号が青になって、実際のところなんといったのかは分からずじまいだった。 で、どうすればいいの? 反対車線ではどんどんわたしを抜かして先にいってしまうし、道路を横断するのは車が邪魔をする。仕方ない、わたしもいくか……このままで。 と思って自転車をこぎ始めると、次の信号で南先輩がこちらを振り返った。 「そこで待ってろ!」 「はい?」 青だったので、わたしはもうそこを渡っていた。南先輩が盛大にため息をつく。 「あーもうバカだな!」 「え? え……」 戻ったほうがいいのか、いやそこまでするならその次の横断歩道で合流したほうがいいよな。 迷ってハルカ先輩の顔を探すと、ハルカ先輩はそのまま進んでいいよと手で合図してくれた。 そして、ようやく次の横断歩道でわたしは一中生と合流した。南先輩が振り返る。 「全員いるか?」 「はーい」誰かが返事をした。 南先輩はわたしと目が合うとニヤッと笑い、それじゃいくかーと再び自転車のペダルに足をかけた。その笑顔は、わたしだけに向けられた笑顔だった。 * * * 「バカだって思われたよね?」 「だぁから大丈夫だよ」 「怒ってるかなぁ……」 「その程度で怒ってたら南先輩の器疑うよ」 「だって、バカって言われたもん……」 「そういうのは天然っていうの」 「天然って何? だって指示を聞かなかったんだよ、怒ってるよ」 「だからね――」 翌日の放課後、武道場の隅だった。部活が始まる前の静かな時間、わたしは葵と先程から行ったり来たりの会話をしていた。近くでは碧が本を読んでいる。菫と桜はモップをかけていた。皐は男子のところにいる。 南先輩はいない。それどころか、県大会に出る小日向先輩と広末先輩、女子は青木先輩以外で来ている三年生は、高塚先輩だけだ。 わたしが幾度目かのため息をついたとき、近くでごろごろしていた茜がやってきた。 「なーにー愛海、落ち込んでるんだ」 「別にそういうわけじゃないけど……」 言ってから、どうみてもそういうわけだよな、とわたしは思った。 こんなところで過ぎたことをぐちぐち言って、葵と無限ループな会話を続けてもなにもならないことはわかっている。だが、気が済むまで吐き出したい気分だったのだ。そして葵はそれに付き合ってくれているのである。 茜はここでもまたごろごろしながら、こう言った。 「もうしょーがないじゃん、南先輩いないんだから」 ピタリ。 周辺の時間が止まった。 一瞬の後、あーあと葵がへなへな崩れ落ちる。 「あーかーねー……! もうー」 「言っちゃったね……」 本から目を上げて碧が苦笑いをする。わたしは何もいえなかった。葵が茜を小突く。 「だからマナちゃん落ち込んでるんでしょうが!」 「えっうそごめんね愛海!」 慌てて茜が手を合わせて謝ってきて、わたしはひらひらと手を振った。 「いや、いいけどさ……事実だし」 「そっかそっかー愛海。そりゃ落ち込むよね! 最後の日にあれじゃね!」 ぐさり。 わたしはますます縮こまって、葵は呆れた。 「あのさ、茜、反省、してる……?」 「え?」 *** 三年生のほとんどが事実上引退したので、この日から一年生も面をつけて稽古をすることになった。 最初に面をつけた日も思ったが、肩までかかる革(面布団というらしい)が歩くとき邪魔で仕方がないし、耳がふさがれて号令も全くといっていいほど聞こえない。面の下に被っている手ぬぐいが落ちくる。視界も狭くなる。頭が重い。篭手をつけると竹刀が握りにくい。などなど、思い通りにならないことがたくさんあった。まるで身体がまるごと変わったようだ。 わたしは原野綾香先輩と、背が高くてどことなく不思議オーラを放つ聖澤エリ先輩と組んで、基本打ちを教えてもらった。以前にも先輩を打たせてもらったことはあったが、防具をつけただけで勝手が違う。 なんとか(本当にやっとのことで)形にしたところで、わたしは聖澤先輩に質問した。 「ところで、すみません。苗字、なんて読むのですか?」 「ん? ああ。ひじりさわ、だよ。長いでしょ。エリって呼んでね」 聖澤先輩改めエリ先輩はそう言って微笑み、即興で「逆さに読んでもリエ〜♪」と歌い始めた。綾香先輩の表情から、これでいつもの調子なのだとわたしは読み取った。 すぐ隣では桜と葵が工藤カナコ先輩の指導のもと手だけで面を打っていて、そのさらに隣では広末真由美先輩が「クドカンより桜のほうが教えるのうまーい」と言って先輩の挙動をいちいち真似している。クドカンというのは工藤先輩のあだ名で、本人も気に入っているのか、後輩にもそう呼ばせていた。 「クドカンも面白い剣道するからねェ」 綾香先輩はそう言った。わたしには違いがよくわからない。 そんな調子で打ち込みの練習をしたり、面のつけ方を何度もおさらいしたりで、その日の部活はあっという間に終わった。 部活終了のチャイムが鳴ると、全員小日向部長の号令で整列し、面を外して黙想をする。 窓から吹き込む風を感じながら、わたしは今日の部活を振り返った。 楽しかった、とまず思った。面をつけると色々な苦労はあるが、ランニングのように心臓が破れそうになることはない。 それから、わたしはあることに思い当たった。 (最近、部活が楽しいってこと、多くなってきたな) 練習が辛いこともまだまだたくさんあったが、それでも楽しいと感じることは着実に増えてきていた。碧とも親しくなったし、先輩方はみんな個性豊かで優しいし、練習にしても、なにかひとつできるようになると達成感があった。 (部活、続けてよかったかも……) やめ、と小日向先輩のてきぱきした声が言って、わたしは目を開けた。 * * * それから二週間、わたしは学校で南先輩を見かけることもなくて、空のパイプ椅子にため息をつきながらも部活のほうは楽しくやっていた。わたしは綾香先輩と仲良くなり、よく一緒に恋の話をした。といっても、専らわたしが綾香先輩に質問されて、答えるといった形だったが。 「南、挨拶返してくれる?」 この日も、部活が始まる前、早く武道場にやって来たわたしたちは隅に座って日向ぼっこをしながら話をしていた。 綾香先輩は南先輩のことを呼び捨てにしていた。「これなら男子にバレないし、あたし、あいつのことあんまり尊敬してなかったんだ」と言っていた。 わたしは質問に首を横に振る。 「いえ、挨拶する機会もあまりなくて」 「そっかー。まぁアイツ、顔覚えた子にしか挨拶返さないんだよね。それも相当機嫌いいときだけ。あたしも一年間とちょっと後輩やってるけど、一回しか返されたことないから。めげないことだね」 綾香先輩はそう言ってわたしの肩をぽんぽんと叩いた。 仲良くなって気づいたのは、綾香先輩はわりとサバサバした性格だということだ。やっぱり第一印象なんて当てにならない。まあ今回の場合は、わたしが綾香先輩とあまり話したことがなかったのが原因だったのかもしれないが。 綾香先輩はそういやあ、と普段三年男子が着替えている方をちらりと見た。 「南のパンツ見たことある?」 いきなりの質問にわたしは不意をつかれてどもった。 「えっ、まぁあり……ます、けど」 「なんで三年生って更衣室に入らないんだろうねェー」 綾香先輩はわたしの動揺っぷりに満足したのか、あははと笑った。 そのとき、武道場のドアが開いて高塚先輩が入ってきたので、わたしと綾香先輩は立ち上がって挨拶をした。こんにちは、と高塚先輩が返してくれる。 それからドアの閉まりきらないうちに、南先輩が入ってきた。 「……ッえ!?」 その後ろから入ってくるのもやはり三年生の先輩ばかりで、その最後尾にいた菅原先生が、わたしたちの驚きようを見て笑った。 「今日は卒業写真撮影なんだよ。終わったら稽古もさせるけど」 じゃあ、とわたしが顔を輝かせたのは一瞬で、 「せんせー、俺、今日病院なんで写真終わったら帰りますー」 南先輩のよく通る声にかき消された。菅原先生がおう、と応える。 思わず深い落胆の息を漏らしたわたしの横で、綾香先輩が一言「まったく……」と頭を抱えた。 宣言どおり南先輩は写真撮影が終わるとスーッといなくなってしまった。 わたしは集合写真を撮る間、カメラのレンズを見る時以外はずっと南先輩の後姿を見つめていた。南先輩の首筋は先輩がちょっと横を向いたりする度にはっきりとしたラインを浮き上がらせていた。 (痩せてるなぁ、よく食べるくせに) わたしはぼんやりとそう思って、ダイエットをしようと心に決めた。 その日の部活が終わって家に帰ると、わたしは兄の部屋に忍び込んだ。兄は三歳年上で、今年高校一年生だ。 わたしは兄の卒業アルバムを引っ張り出した。 部活動の写真の中に、わたしは剣道部の写真を見つけた。今日撮影したのと同じ隊列で、三学年揃って写真に写っていた。わたしはすぐに南先輩を見つけた。 一年前の南先輩は最後列に立ち、髪型も今の無造作な撥ね様ではなく、ちゃんとしているというよりは、興味がなくていじっていないといった感じだった。そして、知らない人が見たら、なんでこの人は拗ねているの、と尋ねられそうな表情をしていた。南先輩は真顔だとこうなる。笑えばいいのに、と私は思った。 |
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