top


サクラナク

-アイガサ-




 藍色の折りたたみ傘を、雨がぽつぽつと打っていた。

 校舎からは、たくさんの三年生が友達としゃべりながら流れ出てくる。一、二年生はまだ授業中だが、受験の終わった三年生は朝のホームルームを済ませれば帰ることができるのだ。

 卒業式まで、あと三日だった。三年生の大半は進路が決まり、決まらなかった生徒もひとまずの解放感に包まれ、残り少ない高校生活を名残惜しみながら過ごしていた。

 うごめく色とりどりの傘を眺めていると、横から声をかけられた。

「翼くん」

 振り向くと、そこには彼女・・がピンクの傘を差して立っていた。

「お待たせ」
「いや、そんなに待ってないよ」
「ん、ならよかった」彼女・・ははにかみながら言った。

 人の流れに沿うように、どちらからともなく歩き出す。よどみを避けながら中庭を横切り、校庭のふちを歩いて、門のほうへと。その場にいた誰もがそうしていたように、翼たちもまた、これまでの話や、これからの話をした。

 門のところについたあたりで、ふいに彼女が立ち止まり、傘を傾けて、手を空にかざした。

「やんでる」
「ほんとか?」

 その通りだった。翼は折りたたみ傘をしぼませると、軽く水気を払って畳み、袋にしまってから鞄に入れた。

 だが、彼女は傘こそしぼませたもののずっと空を見上げていた。

「どうした?」
「見て。……咲きそうだよ」

 彼女は頭上の一点を指差した。目をやると、黒い大きな木の、細い細い枝の先に、すっかり膨らんだピンク色のつぼみがついていた。

「本当だ。さくら……」

 口に出した途端、翼は自分の心の奥で、しまいこんだはずの何かが急にもぞもぞ動き出すのを感じた。それはまるで、鞄の隅に忘れられた何かに、心が呼び寄せられているような動き方だった。

「……桜ね」

 翼の気持ちを知ってかしらずか、おそらくは知らないのだろうが、彼女がゆっくりと口に出した。

「私、桜って好きだな。咲く前から人をわくわくさせて、咲いている間ももちろん素敵だし。それに……散るときも、綺麗だから」
「……ああ」
「桜が咲いてると、あー季節が変わるんだなって感じがするの」

 彼女は視線を下ろすと、傘をふるって、きちんと畳んだ。

「行こうか。……翼くん?」

 翼はまだ、枝の先から視線をはずせないでいた。そんな翼に気付いて、彼女は首をかしげる。

 ややあって、翼が口を開いた。

「……ごめん。先に帰っててもらえるかな」
「どうしたの?」
「忘れ物、した」
「あ……それなら、待ってようか?」
「いいんだ。……ごめん。夜、電話するから」翼は枝から目を離すと、彼女に視線を向けた。彼女は少し残念そうな笑みを浮かべていたが、深くは追求してこなかった。
「……うん。わかった」

 翼は彼女に手を振ると、人の流れに逆らって駆け出した。時折ぬかるみに足を取られそうになりながら、それでも歩くのはもどかしかった。

 ずっと鞄に入れっぱなしにしていた、黒い折りたたみ傘。そのままもらってしまうつもりなど毛頭なかったし、すぐに返そうと思っていた。だが、席替えをして、クラスも変わって、返しそびれていた――翼はそう自分に言い訳していた。この傘だけが、あの雨の日の出来事の存在を確かに教えてくれる。この傘があれば、いつでも彼女に話しかける口実ができる……なんて、少しも考えていないふりをして。

 それもあの朝からは、もう忘れてしまうつもりで、隅の方へしまいこんでいたのだった。なに一つお礼をいえなかったことや、伝えられなかった言葉も、一緒に。

 今さらそれらを取り出してみても、何にもならないのかもしれない。そうだとしても、翼は走らずにはいられなかった。

「古川さくらっ……、いる?」

 息を切らして古川のクラスの教室に飛び込むと、ほんの数人だけ残っていた女子生徒が一斉におしゃべりをやめてこちらを振り返った。

「古川さん? 帰ったと思うけど」

 その言葉でしぼみかけた翼の心が、別な女子の一言で復活した。

「いや、違うよ。たぶん、英語科準備室で先生に合格体験談みたいなやつ話してる」
「本当か。何時に終わるんだ、それ?」
「さあ。もう終わったかもしれないし……でも、なんで?」その女子生徒は興味ありげな目で翼を見た。
「借りたもの、返したいんだよ」
「ふーん。じゃ、下駄箱見てみたら。たぶん、三十三番とかだから。古川さん」
「わかった。サンキュー」

 はやる気持ちで階段を駆け下り、下駄箱を見てみると、果たしてそこには黒いローファーがきちんと置いてあった。おそらく、その合格体験談とやらがまだ終わっていないのだ。

(進路、決まったんだな……)

 翼は一旦昇降口の外に出た。もう生徒の大半は下校したらしく、人の出入りはまばらだった。彼らがおしゃべりをしながら下校しているのを眺めながら、翼は待った。なんて声をかけようか、何を話そうかと、想像しながら。

 30分ほど待っただろうか。雨の止んだ空に、晴れ間が覗いてきた頃だった。

 古川さくらが寒そうに身をすくませながら外に出てきた瞬間、翼はなんと声をかけるつもりだったのか忘れてしまった。翼に気付かず行ってしまうそうな彼女の前に、慌てて一歩進み出て、口を開く。

「お疲れー、古川」
「……蓮見くん」

 古川が、翼を見上げた。翼はというと、二年ぶりに交わす挨拶にしては粗末すぎて、自分で笑いそうになっていた。

「久しぶりだな」
「……久しぶり」

 古川の表情からは、驚きが見て取れた。こうして見ると、一年生の頃よりも表情から幼さが抜けているのがよく分かる。その代わり、どこか明るく、柔らかい雰囲気をまとったようだった。

 翼は自分の鞄をごそごそやって、奥底から黒い古川の傘を引っ張った。取り出す前に、自分の藍色の傘と見比べる。席が離れても、クラスが離れても、最後まで残っていた絆……。

 翼はぐっと手を握ると、一本だけ選んで古川に差し出した。

「遅くなってごめん。ずっと返そうと思ってたんだけど」
「……返さなくてもよかったのに」

 古川はぼそぼそと言って受け取ろうとしなかったが、翼は強引に彼女の手に押し付けた。

「持ってて欲しいんだ。あのときは本当に助かったよ」
「大したことじゃ、ないから」

 そう言いながらも、古川はその傘を自分の鞄にしまった。それをしっかり見届けてから、翼は口を開く。

「俺さ……。雨に濡れなくて済んだから、こんなこと言うわけじゃないんだ」
「……どういうこと?」

 古川が首をかしげた。きっと彼女にとって、傘を貸したことは、本当に大したことではないのだろう。

「俺、あの時……偶然置いてかれたとかそんなんじゃなくてさ。ハブられてたんだよ。あ、部活でね」

 翼はなるべく明るく聞こえるように言ったのだが、古川は目を見開いた。

「ひどいね……」
「まあ、もう済んだことだからいいんだけどさ。元凶だったやつは部活やめたしね。でもそんときはすげー悔しくて。クラスでも同じ部活の奴は口利いてくれねえし、他のやつもいつそうなるかわからなかった。色々と不安で、勉強も手につかないっつーか、それを言い訳にしてサボッてた部分もあるけど……」

 話し始めると、言葉が口をついてでてきた。古川はそれらひとつひとつを頷きながら聞いてくれていた。少し照れくさくて、翼は目を逸らす。

「……でも、古川のおかげで、頑張ろうって思えたんだ」
「……わたし……?」
「うん。毎日きちんと学校に来て、苦手なことからも逃げなくて。だから俺も、古川を見習おうと思って理系に入ったんだよ」

 翼は自分の顔が赤くなっていくのを感じた。古川がどんな表情をしているのか気になったが、絶対に今は振り返られない。

「……ありがとう……」

 古川の声が、優しい風に乗って翼の耳に流れこんできた。こっちの台詞だよ、と翼は笑う。

 思えば、初めて言葉を交わしたのも、三年前のこの季節だった。

 それからずっと、一番つらかったとき――駅で途方にくれていた入学初日、雨の前に立ち尽くした夜、寒々とした冬の昼休み、古川はいつも自分の味方でいてくれたのだ。

 その古川が今、自分の目の前で微笑んでいた。

 これ以上見つめたらどうなるのだろう――そう思ったとき、あまりに自分勝手すぎる考えが、ちらりと脳裏を掠めた。

「……古川、俺さ……」
「蓮見くん」

 古川の決然とした声は、感情的になりかけた翼の心をあっというまに鎮めた。

「彼女、いるんでしょ。そろそろ行ったほうがいいよ。……それじゃあね」

 さら、と長い髪が揺れ、古川は翼に背を向けた。もう話はすべて済んだといわんばかりに。

 思わず引きとめようとした手が、空中で止まった。

 確かに、伝えたかった言葉はすべて伝えたじゃないか――

 いや、違う。心の中でもう一人の自分が言った。

 傘とともに渡したかった言葉は、まだあるのだ。ずっと前からあったのだ。ただ、伝えるにはあまりに時間が経ってしまった。そのくせ、笑い話として済ませるには、あまりに鮮明すぎる。でも、このまま自分の胸の中に永遠にしまっておくには、

 あまりにも、美しすぎた。

「……さくら」

 ぴたり、と足が止まる。

 翼は自分がなにを口にしたのか気付いて、顔が熱くなるのを感じた。だが、なかったことにはしたくなかった。その一心で、なんとか言葉をつなぐ。

「卒業式に、咲くといいな。俺、桜って好きなんだ」

 古川が振り返る。まっすぐな瞳で、翼を見つめる。照れくささで翼は一瞬目を逸らし、だがすぐに見つめ返した。

「きっと、咲くよ」

 古川は、そう言って――にこっと笑った。目がくしゃっとなって、長い髪がかすかに揺れた。

「そうだと、いいな」
「うん。……またね、翼くん」

 彼女は手を振り、翼もまた手を振り返す。


 そして古川さくらは、今度こそ翼に背を向けた。

 暖かい風が、彼女の背中を追いかけていく。その風に吹かれながら、翼はいつまでもそこに立ちすくんでいた。



サクラナク -アイガサ-
END

BACK Novel Top