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サクラナク

-アイガサ-



 鞄の中に、二つの折り畳み傘が並んでいる。

 ちらりと見れば同じ傘。よくよく見れば違う傘。

 二つの傘を見比べて、翼は小さくため息をついた。

「卑怯。かな……」







 高校一年生、春――

 入学式の日を、蓮見翼は、右足を骨折した状態で迎えた。


(ツイてねー)

 親は仕事で入学式に付き添うことはできなかった。翼の両親は小学校の教師で、あっちはあっちの入学式というわけだ。さすがに心配はしてくれたが、だからといって簡単に休めるわけでないことは翼だって知っている。

 というわけで翼は、ひとり松葉杖をつきながら学校へ向かうことになったのだった。

 地元の駅までは車で父親が送ってくれたし、その駅は最近改装されたばかりでバリヤフリー設計が施されており、電車に乗るまではかなり楽だった。電車でも席を譲ってもらえ、このぶんなら学校までも楽勝だ、と翼はふんでいた。

 問題だったのは学校の最寄り駅だった。

 ホームがひとつしかない小さな古ぼけた駅で、改札まで登るのにエレベーターどころかエスカレーターもない。長い階段を登るしかなかったのだ。

 松葉杖を使って階段を登る練習は何度かしたものの、後ろに重心をかけすぎて転倒しかけて以来避けていた。それなら松葉杖を抱えて、もう片方の手で手摺に捕まりながら片足で登ったほうが安全な気がする。

 階段を見上げて考えをめぐらす翼の横を、何人もの人がちらちら見ながら通り過ぎた。これから毎日通う駅だが、今は誰ひとり知る者もいない。

 翼は意を決して、松葉杖を抱え、手摺に捕まった。そして無事な左足で、飛び跳ねるように地面を蹴った。

 ぴょん。一段のぼる。

 ひょい。もう一段。

 ぴょん。地味に松葉杖は重い。

 ガツン。痛ぇ、杖に蹴られた。

 ひょい。左足が疲れてきた。

「あ、あの、手伝おうか?」

 横から声がして、翼は振り向いた。

 髪の長い女子生徒だった。制服を見るに、同じ高校らしい。スカートが短いから上級生だろうか。彼女は翼と目が合うと、笑みを浮かべて首をかしげた。瞳は切れ長の一重で、はっきり言って顔立ちは地味だったものの、とっつきやすい雰囲気をまとっていて人がよさそうだった。

「ほら、その杖、邪魔そうだし持ってあげる」

 そういって彼女は手を差し出した。

「あぁ、ありがとうございます」

 好意に甘えることにして、翼は杖を彼女に渡した。

「荷物は?」彼女は、翼の背中にあるスクールバッグに目をやった。邪魔だったので持ち手に腕を通して背負っていた。
「いや、こっちは大丈夫っす」
「そっか」

 彼女は笑みを絶やすことなく、翼にペースを合わせて一緒に階段を上ってくれた。両手で手摺に捕まることができたので、さっきよりは楽に階段を登ることができた。

 のぼりきるまでの間、彼女はほとんどしゃべりっぱなしだった。

「なんで松葉杖なの?」
「友達とサッカーして骨折したんスよ」
「ふーん、入学式なのに災難だったね」
「本当っすよね」
「サッカー部入るの?」
「いや、本業はバスケなんで」
「あぁ、背ー高いなって思ったんだ。何センチ?」
「178くらいです」
「もうすぐ180じゃん!」
「でも、中二から伸びてないんですよね、一ミリも」
「うーん、牛乳いっぱい飲めば大丈夫だよー。骨折も早く直るし、一石二鳥!」

 そんな会話をしていると、ようやく改札口についた。

「降りるほうは大丈夫? 改札の外でまたくだりの階段あるけど」
「大丈夫です。ありがとうございました」

 彼女は松葉杖を返しながら笑った。

「わたしも一年生だから、敬語じゃなくていいのに」
「え、そうなの?」

 勝手に二年生くらいと目星をつけていた翼は驚いた。彼女はクスクス笑って頷く。

「だって、上級生は午前中に始業式でしょ? ま、同じクラスだったらいいね。それじゃ」

 彼女はちいさく手を振って、改札を颯爽と通り抜けていった。



「本当に同じクラスだったねー」

 入学式や初のホームルームが終わった後、席で携帯をいじっていると声をかけられた。

 今度は、顔を見る前から誰だかわかった。

「えっと……春川、だっけ?」
「おしい。古川」

 確か春っぽい名前、と思って口に出すと、彼女は笑って手をひらひらさせた。

「まーわたしもぶっちゃけ顔とかよく覚えてなかったけど、骨折してたからすぐわかったよ」

 その『ぶっちゃけ』に、翼は苦笑いをした。

「マジか。俺、クラスの大半に『骨折の人』って覚えられてんだろうなあ」
「はは、その可能性あるー」

 古川のよく通る声に、教室の何人かがちらりとこちらを見た。男子はホームルームが終わるとかなりの数が退散したが、女子はさっそく教室の隅に何人かで固まっていたのだ。

 翼は席を立つと、朝と同じようにスクールバッグを背負った。

「帰りは親が迎えに来てくれるっぽいから、それまでバスケ部見に行くわ」
「その足で?」古川は驚いた顔をした。
「参加はできねーけど、見学はできるだろ?」
「そっか、……」

 古川は一瞬真顔になり、それからにこっと笑った。目がくしゃっとなって、長い髪がかすかに揺れた。

「それじゃあ、また明日ね。翼くん」


* * * * *


 医者によれば、骨折が全治するのに二ヶ月はかかるだろうとのことだった。

 古川をはじめとする新しいクラスメイトが何かと助けてくれたので、授業やその合間に困ったことはほとんどなかったが、問題は部活動だった。

 正式にバスケ部に入部し、毎日見学はしていたが、練習に参加する日まではまだまだ遠い。翼にできることといえば、ボール磨きや練習前後の掃除、そして足に負担をかけないトレーニング程度だった。

 翼は、練習の遅れはもちろん、他の同級生が練習を通じて距離を縮めていく中、自分の周りにだけ壁ができているのではないかという不安に駆られていた。


 その不安を正面から突きつけられたのは、ある日の練習終わりだった。その日は先生の機嫌が悪く、一年生は何かひどくしかられた後に体育館を何週もさせられたのだった。

「お前はいいよな、楽で」

 一年生の中で一番体格の大きい鈴木が、翼に使用済みのボールを投げるように渡しながら吐き捨てた。鈴木は翼と同じクラスだったが、共通点が多いわりにお互いそれほど口を利かず、仲がいいわけでもなかった。

 翼が何も言わずにボールを磨き始めると、鈴木の発言を聞きとがめたらしいキャプテンの三年生が振り返った。

「やめろよ、鈴木。一番つらいのは蓮見なんだから」
「はい、先輩。ごめんな、蓮見。冗談のつもりだったんだ」鈴木はすぐに頭を下げた。

 しかし、キャプテンが余所見をした隙に、鈴木は翼をひと睨みした。威圧感よりも、冷たさを感じさせるような目で。

 そんな彼が日々確実にバスケの腕を上げていることを思うと、翼はもどかしさで胸をかきむしりたい気分だった。


* * * * *


 ようやく包帯を取り去ることができたのは六月だった。自分の足で教室に踏み入れると、何人かの生徒が寄ってきて、「おめでとう」と声をかけてきてくれた。

 教室を見回すと、窓際で女子数人がおしゃべりしているのが目に入った。古川もいる。翼は自分の席へいくのにわざと遠回りして、そのそばを通った。

「あ、足治ったんだ。おめでとー」一人がそういったのをきっかけに、「おめでとう」「おめでとー」と続いた。
「うん、ありがと」

 最後に、古川が目を細めて言った。

「治ってよかったね、蓮見くん」

 翼が何か言う前に、彼女たちはおしゃべりに戻っていた。



 その日、翼は誰よりも早く体育館へ行き、一人で練習を始めた。ずっと使っていなかった右足がガクガクする。だが、ボールを打ちつける音、バスケシューズが床にこすれる音に、なんともいえない高揚感が湧き上がってきた。ドリブルで体育館を一周すると、翼はスリーポイントのラインからシュートを放った。

 ボールはきれいにアーチを描き、そして――赤いリングに当たって跳ね返った。

 床を転がるボールを目で追いながら、翼はひとりつぶやく。

「練習、……だな」


* * * * *


 高校生になって初めての夏休みはあっという間に過ぎ去り、秋になった。

 ある日の放課後、翼が忘れ物をとりに教室に戻っていくと、男子が五人ほど額を寄せ合って何かを話しているところだった。

「だからさ、俺のクラスはもっとこう、恥じらいを捨ててだな――」

 ドアを開けた瞬間、全員がびくっとして振り返ったが、翼だとわかるとほっと胸をなでおろした。

「なんだ、翼かよ。ノックしろよ」
「いつからここは職員室になったんだよ。で、部活は?」翼は尋ねた。
「雨だから、ここんとこずっとねーんだ」
「俺は夏休み中にやめたし」
「ふーん」

 翼は忘れ物を回収するとさっさと体育館に戻ろうとしたが、一人に呼び止められた。

「待てよ。翼は、誰狙いなわけ?」
「は?」

 聞き返すと、彼はにやにやした。

「だからさ、付き合うなら誰がいいんだよ?」
「そんなの……」

 翼は口をつぐんだ。たった一瞬のあいだに、チアガール部の子の衣装姿や、クラス委員のミニスカートなどが浮かんでは消えていった。そして最後に残った黒髪の少女が、翼に微笑みかける。

『また明日ね。翼くん』

 答えないでいると、まわりの男子が茶化しはじめた。

「やめとけよ。翼が惚れてんのはマイケル・ジョーダンだけだから」
「うわ、ホモじゃん」

 翼は肩をすくめた。

「いいよ、なんでも……俺は部活に戻るからな」

 ドアを閉めようとしたとき、教室の中の一人と目が合った。

 今日、体調不良で部活を休んだはずの鈴木は、すぐに目を逸らし、ドアが閉まるまで二度とこちらを見なかった。


* * * * *


 四月以降、古川とは何度か挨拶を交わしていたし、多少話すこともあったが、あまり踏み入った話をしたことはなかった。それは他の女子とも同じなのだが、古川の場合は、同性異性関係なく誰とも踏み入った話をしていないようだった。休み時間ごとに必ず誰かと話しているのに、聞こえてくる内容はどこか薄っぺらい、表面を撫でるだけのような話題なのだ。

「さっきの授業、先生の説明わかった?」
「よくわかんなかったけど、質問してみたらわかったよ」
「ほんとにー? わたし、わかんなすぎて寝ちゃったー」

 そんなやり取りと苦笑いの後に会話の輪を外れた古川は、どこか張り詰めたような、こわばった表情をしていた。

 翼は思わず席を立ち、古川に声をかけた。

「古川?」
「……えっ? あぁ、蓮見くん」

 席に戻る途中だった古川は、まぶしそうに翼を見上げた。

「どうしたの?」
「こっちの台詞だよ。どうしたんだよ……その……ぼうっとして」

 怖い顔して、とはいえず、翼は言葉を濁した。すると、古川は口元に笑みを浮かべるのだった。

「あはは、ちょっと寝不足かな? それも勉強じゃなくて、テレビ見ちゃってさー」

 バカだよねー、といって笑いながら、古川は席に戻っていった。


 古川の口数が、傍から見ても激減したのは、それからまもなくのことだった。


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